日本性差医学・医療学会

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リレーエッセイ

日本性差医学・医療学会 リレーエッセイ第3回

性差医学医療との出会い

和温療法研究所所長 / 獨協医科大学特任教授
日本性差医学・医療学会 理事 鄭 忠和

 私が性差医学医療に出会ったのは天野恵子先生とのご縁によるものでした。1975 年~1977年にかけて東大坂本二哉先生の研究室に国内留学していた時、研究室での私の机が天野先生の机と隣同士で、天野先生からいつも適切なアドバイスや指導を受けていました。天野先生にいつも感心したことは、英語文献の読むスピードと理解力、そしてオリジナルな発想と行動力でした。当時、天野先生は3人のお嬢さんを育てながらの勤務で、寸暇を惜しんでの勤勉ぶりに圧倒されていました。昼食時はいつも文献を読みながら弁当を食べておられました。ある日、お嬢さん達の世話をする方が何かの事情で休まれ、3番目のお嬢さんを連れて研究室に来られました。3歳ぐらいだったと思います。文献を読みながらお嬢さんに箸で弁当を食べさせていたのですが、先生の目は文献を読みながらお嬢さんの方を全く見ないで、時々箸に挟んだご飯やおかずをさっと差し出すのです。するとお嬢さんは口をぱくりと開けて、箸に挟んだご飯やおかずを素早く口に入れて食べるのです。実に鮮やかな親子の連係プレーでした。箸が目をつついたらと私は心配で落ち着きませんでしたが、何事もなく昼食を終えられました。天野先生の集中力のすごさを感じさせる忘れられない思い出です。
 日本で最初に性差医療を提唱したのは、1999年第47回日本心臓病学会(村山正博会長)で、天野先生が企画立案された性差医療に関するシンポジウムでした。更年期女性に多い「微小血管狭心症」を紹介され大変感銘を受けたことを記憶しています。そのシンポジウム後、天野先生から性差医療のお話をお聞きする度に、女性医療の重要性を痛感するようになりました。私には3人の娘がおり、娘たちのことを考えると性差医学医療の重要性を素直に理解することができました。
 2000年12月末、鹿児島大学第一内科の女医さんと同門の女医さん達に呼びかけて、天野先生をお招きして、「Gender-Specific Medicine」を学ぶセミナーを企画しました。20数名参加した女医さんたちは天野先生の講演にすっかり感動して、講演後の懇親会で全国に先駆けて女性外来を立ち上げようという機運が一気に噴出しました。そのリーダーが嘉川亜希子先生でした。嘉川先生以下8人の女医さん達で(写真)、翌年2001年5月に本邦初の女性外来を鹿児島大学病院の第一内科外来に開設したのです。その後、女性患者の要望に応えるべく全国に女性専門外来が普及しましたが、その原動力は堂本千葉県知事と千葉県衛生研究所所長の天野先生の二人三脚による力強いリーダーシップでした。堂本知事と天野先生には鹿児島大学医学部の学生に性差医療の特別講義をしていただきました。天野先生にはその後、非常勤講師として、毎年鹿児島大学医学部4年生に90分授業を2コマ(180分)、2012年3月に私が大学を退職するまで学生講義をお願いしました。「Gender-Specific Medicine」を普及発展させるためには医学生に対する教育は極めて重要です。

2001年5月、鹿児島大学第一内科女性専用外来開設時の8人の女医さん達


 現在、最先端の医療は臓器別診療として細分化されていますが、臓器別診療は診断・治療の精度を向上させるために必要不可欠なことです。しかしそれだけでは十分でないように思います。最終的な目標は各臓器を構成している全身的な回復でしょう。全身的回復は身体的な回復だけでなく精神的な回復も含みます。すなわち、全人的回復が医療の最終的目標だとすれば全人的医療が必要です。性差医学医療は全人的医療に通じる医療であると思います。
 2010年日本循環器学会の「循環器領域における性差医療に関するガイドライン」を嘉川先生と天野先生の協力を得て作成することができました。性差医学医療の研究・診療が進み、性差医療に関するガイドラインの改訂版が近い将来作成されることを期待します。
 私は初代理事長(2008~2012)を務めさせていただきましたが、無事に責任を果たせたのは天野先生と嘉川先生のご協力と多くの会員のご支援のおかげです。第2代理事長を下川宏明先生に引き継ぐことができたのは私の一番大きな喜びであり業績です。下川理事長になってからの本学会の発展は素晴らしいものです。下川理事長は2017年9月に第8回国際性差医学会学術集会を仙台で開催し、世界18ヶ国から約250名が参加して大変盛会でした。国際性差医学会のboard memberに下川理事長が選出されたことは日本性差医学医療学会にとって大変喜ばしいことです。下川理事長の卓越したリーダーシップで、本学会が世界をリードする学会に発展することを大いに期待しています。


日本性差医学・医療学会 リレーエッセイ第2回

恩師 坂本二哉先生に感謝

一般財団法人 野中東晧会 顧問
日本性差医学・医療学会 理事
天野惠子

私が医師になろうと決心したのは7歳の時でした。4歳で父親の転勤に伴い、雪深い秋田県へ長野から移ってきました。今に思うと最初はいじめの対象でした。幼稚園にも3日で登園拒否になり、家でひたすら本を読んでいました。小学校に入学し、授業はとても楽しかったのですが、家に帰ってから遊ぶ相手がいませんでした。私が小1の時に、父は肺結核の診断で(誤診だったのですが)、一人神奈川県茅ヶ崎へ転地療養に出掛けていきました。その頃は外に出れば、子どもたちが大勢いて、群れとなって遊ぶのが日常でしたが、小6の女の子をボスとした集団は、私が「遊んで」というと「惠子毛だらけ灰だらけ、お前の父さん肺病やみ」とはやし立てて、さーと逃げていくのです。そんな時に、我が家の裏に、1歳下のかわいい女の子が何らかの事情でおばあさんに引き取られてやってきました。私が唯一心許せる友達でした。ところが、1年も経たない秋に、彼女のおばあさんはくも膜下出血で帰らぬ人となり、彼女もどこかへ貰われていきました。母に「どうして人は死ぬの?」と聞いたとき、母は「惠子さんがお医者さんになって、人が死なないようにしてちょうだい」と、真顔で話してくれました。その時に、医師になることを決心して以降、その夢が揺らぐことはありませんでした。秋田市立築山小学校、秋田大学附属中学校と学校生活を楽しく過ごし、中学2年の12月に、父親の転勤に伴い、上京してきました。品川区立荏原第一中学校、都立日比谷高校を経て、昭和36年に東京大学理科Ⅱ類に入学、38年に医学部医学科へ進学しました。ところが、卒業を控えた昭和41年からいわゆる医学部の紛争が始まり、卒業試験はボイコットされ、卒業は昭和42年の8月でした。病院は封鎖され、友人たちは各々自分の知己を頼って日本各地へ散らばり、東大病院が閉鎖から開放されたのは昭和46年でした。私が東大病院へ戻ったのは昭和49年。色々な経緯を経て、第二内科坂本二哉先生の研究室に入りました。心音図・心エコー図の世界で坂本先生を知らない方はいなかったと思います。その時に、坂本先生が下さった「心音図の手引き」に書かれた先生の言葉が、その後私の宝物となり、その言葉に負けぬよう生きてきた自分がいます。平成15年日本性差医学医療学会の前身である性差医療・医学研究会を立ち上げ、平成16年3月14日に第1回学術集会を開催しましたが、その背中を押して下さったのも坂本先生です。平成11年のある日、私の机の上に“Heart Disease in Women” edited by Pamela S. Douglasの本がさりげなく置いてありました。私がGender Differenceに目覚めた瞬間です。75歳を迎えた今、「あらまほしきは先達なり(徒然草 第52段)」とつくづく思う今日この頃です。医療・医学の実践において、迷うことがあったら、先輩の意見を聞いてみることも大事です。




日本性差医学・医療学会 リレーエッセイ第1回

私と性差医学

東北大学医学系研究科 循環器内科学 教授
日本性差医学・医療学会 理事長
下川宏明

 役目柄、このリレーエッセイの第1回目を引き受けることになりました。学会HPのご挨拶でも述べていますように、天野先生・鄭先生にお声をかけていただき、2004年に本学会の前身の「性差医療・医学研究会」の時代から参加し、2008年に「日本性差医学・医療学会」が発展的に設立されて鄭先生が初代の理事長を務められた後、2012年から2代目の理事長を拝命しています。昨年9月には、仙台で国際性差医学会を開催させていただき、国内外から多くの方々にご参加いただき、有難うございました。

 さて、私の家族は、両親も祖父母も共働きで、子供の頃から、女性も社会に出て男性と同じように働くことは当たり前という感覚で育ってきました。「男女共同参画」の意義が現在強調されていますが、私共夫婦も共働きで、個人的には子供の頃からその感覚は何の疑問も持たずに育ってきました。母は中学の教師をしていましたが、自宅と職場の間にちょうど母の実家があり、毎日、母の自転車に乗せられて実家に連れていかれていたことと、自転車をこぐ母の背中が記憶にあります。ただ、現実はまだまだ改善すべき点が多々あり、13年前に私が東北大学に着任してその週のうちに真っ先に行ったことが女性更衣室の設置だったことは象徴的です。

 今年の第11回目の学術集会を担当してもらった九大の樗木晶子先生とは九大の同級生です。彼女の旧姓が陶山で、五十音順で下川―陶山と学籍番号が隣同士で何をするにも一緒でした。当時は、医学部卒業後は直接入局制で、私が循環器内科に入局したいと挨拶に行ったところ、当時のやり手の医局長から「当科は一人では入局させないことになっている。誰かを誘って二人で入局してほしい。」と騙され、私はその言葉をまともに信じて樗木先生を誘って二人で行ったところ、女医さんの入局は想定外であったらしく、大変慌てられて、樗木先生の入局が許可されるまでにはいろいろとありました。しかし、その後の樗木先生の頑張りは大変なもので、現在は九大保健学科の教授として活躍していますが、3人のお子さんの母として、また同業医師の妻としても奮闘しています。まさに、「女性(女医)の一生」を見せてもらっているようです。

 最後に、研究テーマの一つとして、冠微小循環障害を長年研究してきていますが、最近、非常に面白い展開になってきています。この冠微小循環障害は、最初は、更年期前後の女性に多い微小血管狭心症の原因として注目されましたが、最近では、虚血性心臓病全般や心筋症・心不全等の病態にも深く関与しており、重要な予後規定因子であり新たな治療標的であることが分かってきています。研究の興味は尽きません。

 性差は、人種・年齢・生活習慣・遺伝・環境などとともに、医学・医療において当たり前に考えるようになる時代がもうすぐそこに来ていると思います。


アルバム<九大の同級生>

下川宏明先生(右端)
サッカー部合宿(英彦山)にて
樗木晶子先生(手前)
解剖学実習にて

第11回日本性差医学・医療学会を終えて

九州大学大学院医学研究院 保健学部門 教授
日本性差医学・医療学会 理事
樗木晶子

 2018年1月20−21日、福岡での第11回日本性差医学・医療学会を無事終えることができ一息ついております。穏やかな小春日和の二日間でした。皆様に心から感謝申し上げます。メインテーマを「性差の源流に遡る −多様性への道程−」と致しましたが、プログラムを考えてゆく上で、何と壮大なテーマを掲げたことかと後悔する羽目になりました。つらつら、本学会の役員名簿を睨んでおりますと、各分野の錚々たる専門家ばかりです。基礎医学のみならず臨床にいたる多彩な領域でリードされている本学会員の先生に各セッションをお願いすれば一つ一つが珠玉のシンポジウムとなるではないか。それからは電話・メール攻勢の毎日でした。悩んでいる最中には様々な先生から親身に知恵や情報を頂き元気づけられました。感謝申し上げます。プログラムが出来上がってゆくにつれて、これだけの先生に講演して頂くからには、それなりの聴衆も集めることが次の課題となりました。このような学会横断的で多彩な分野の医学・医療を一堂に会して学べる機会は滅多にありません。様々な患者に対応しなければならない実地医家こそ、すぐに役立つ知識を得ることのできる学会ではないかと思い、共催してくれた製薬会社のMRの方に自社シンポジウムの広報活動にあわせて、そろりと本学会のお知らせもお願いいたしました。その結果、参加していただいた非学会員の開業の先生も熱心に聴講されており、質問までしていただきました。学会の中核には各領域の専門家を拝し、広く社会に性差医学・医療を普及するためには一般会員として総合診療医や実地医家にターゲットをあてるという学会の方向性もありではないかと思います。

 本学会を企画運営させて戴き、改めて、全ての細胞、臓器に性差があり将来は遺伝子レベルでもそのメカニズムが解明されることも夢ではないことに想いを馳せました。メダカやマウスの性における不思議な生態も興味深く、日頃、臨床や教育で忙殺されていると忘れてしまう“科学する心”を楽しむことができたように思います。

皆様、本当にありがとうございました。


ちしゃき家の猫です太宰府市 樗木チビ

私はチビといいます。ちょっと間抜けのトロと神経質なビンという娘がいます。私達の飼い主は「ちしゃきあきこ」といって人間界では大学の先生をしているようです。朝早く出て行き夜遅く帰りバタバタ動き回って私たちにも猫なで声でよく話しかけてきます。キャッツフードをいつも入れてくれて綺麗な水を用意してくれるのも、トイレを清潔にしてくれるのも彼女なので猫界ではランク付けは上位ですが、どうも家族の中では最下位のようです。見るところかなりのおっちょこちょいでいつも的外れな発言をしているようです。例えば「海外に郵便を送る時に一番速く着くのは空港の郵便局よ」と子供達に得意げに教えています。私らだって「一番速く着くのは博多中央郵便局だって知っているのにさ」。彼女は一事が万事この調子ですが、何とか家庭がまわっているのは人間のできた御主人の存在でしょう。猫の私達からも大学の先生が務まっているのか心配なのですが、きっと、大学でもこんな調子なので誰かしっかりした人が支えてくれているに違いありません。不思議なことにどういうわけか学生さんや秘書さんにしても、しっかりした人が周りに集まっているようです。患者さんには変わった人が多いようで主治医と「どっこいどっこい」の人が多いようです。私も患者さんから餌付けされてちしゃき家にもらわれてきました。私を「いりこ」で餌付けした患者さんも変わった人でしたが、それを貰う主治医なんているのでしょうか?大学病院では「患者さんから謝礼は貰うことならぬ」といわれているのに。。。猫だからいいと思ったのでしょうね。貰われてきてからトロとビンを産みました。産気づいた時、中学生の次男坊主しか家にいなかったので心細かったけど、私が苦しがっているのを見てびっくりし、隣の祖母宅に駆け込み「チビがおしりからなんか赤黒いものを出しよる」と血相を変えて呼んできてくれました。お陰で無事にトロとビンを出産し、次男坊主にも性教育してあげることになりました。自称「美猫」ですのでこれからもよろしく・・

写真の説明
ねこ籠のなかのシャム系虎模様日本猫が私です。美しいでしょう。右隣の非対称性燕尾服日本猫が娘のトロです。鼻の左のホクロが愛嬌で、ちょっととろいです。姉のビンは神経質でパソコンの前に陣取って飼い主からおなかをなでて貰っています。この子は完璧な対称性燕尾服で白手袋も白足袋も完璧な同一サイズです。母子がなぜこんなに似てないのか、不思議ですが、娘達は父親の生き写しです。娘には父親の血が濃く移ると言うでしょ。此方に貰われてきてから彼とは会えなくなって寂しいわ。



リレーエッセイ性差医学医療学会

藤田保健衛生大学坂文種報徳會病院 脳神経外科 教授
脳血管ストロークセンター センター長
日本性差医学・医療学会 理事
加藤庸子

 この度、日本性差医学・医療学会ではリレーエッセイと題しまして、本学会に関わりの深い先生方らと共に性差医学・医療についての考え、想いや各ご専門を目指された目的などエッセイをバトンタッチしながらリレー形式で皆様に情報を交えてお届けすることを目的に始めさせて頂きました。

 私が脳神経外科医を目指すきっかけになったのは、当時の講座教授からの“元気そうだから脳外科やってみませんか”の一言でした。その場で承諾した自分を当時は誇らしげに思っていました。学生時代から1、2の医局に入り浸っていました。楽しい学生時代でした。しかし、女性で外科系を選択するのは稀な時代でもあり、はなから外科入局は期待もしていませんでしたので内心やった!と思いました。

 当日連日のように来る脳卒中の患者様の対応や緊急手術は楽しくてなりませんでした。脳神経外科学会からもの珍しい“女性脳外科医”として目に写ったのでしょう。父親ほど年の離れた教授からは、可愛がって頂きました。

 しかし大方の男性医師は、いつ弱音をはいて辞めるのか期待してみてい たと思います。医局の上司の理解に恵まれ、香港への初の国際学会をはじめ、国内の学会にも顔を出すようになり、物珍しい存在から、結構しぶとく頑張るという評判に変わりました。脳外科世界連盟の理事にも、アジアから初、しかも女性で初の選出は自身の世界への開眼に繋がりました。外から日本を眺める絶好の機会でもありました。単一民族、単一言語、島国の平和な環境は他国と大きな違いでした。

 途上国の若者の教育が世界脳神経外科連盟のmissionでしたので、その教育長を命ぜられた折には、アフリカ、中央アジア、南米に出向く機会があり多くを学びました。しかし世界の女性脳外科医の現状は厳しいものでした。それを知る機会も、日本にfeedback出来る機会もこの海外勉強から頂きました。 今回の私の話からは、是非好きな道を選んで突き進んで下さい。そして、ガッツに食らいついて若いうちに色々な冒険をしてほしいと思います。